■オピニオン

滝田栄氏 映画「不撓不屈」を語る
 ――私の演じた飯塚毅像

 俳優 滝田 栄氏に聞く
 インタビュアー:会報『TKC
前編集長 寺田昭男

 経済小説の旗手、高杉良氏の『不撓不屈』(新潮社)が映画化され、6月17日より全国一斉拡大ロードショーの予定だ。主演を務めるのは、NHK大河ドラマ「徳川家康」等でおなじみの滝田栄氏である。映画監修者で本誌前編集長の寺田昭男会員が、滝田氏にTKC全国会 飯塚毅初代会長を演じた感想や推奨シーン、役者観などについて幅広く聞いた。

臨済寺の涅槃図から家康の根本力を知る

 ――飯塚毅先生が創設したTKC全国会は昭和46年に呱々の声をあげましたが、滝田さんが役者の道に入られたのと同時期ですね。
 滝田さんは芸歴35年で、これまでに多くの作品で主役を演じられました。まず俳優になった動機からお願いしたいのですが。

 滝田 大学1年のときに「アラビアのロレンス」を見たのですが、スケールが大きく、感動的で、主役のピーター・オトゥールに憧れて、役者を目指すようになりました。そして、文学座に研修生として入り、稽古の日々を送ったわけです。

 ――舞台からテレビや映画の世界に出ていったきっかけは?

 滝田 劇団四季のミュージカル「ジーザス・クライスト=スーパースター」のユダ役で注目され、NHK大河ドラマ「徳川家康」や朝の連続テレビ小説「なっちゃんの写真館」と立て続けに声をかけていただき、出演することができました。

 ――「家康」を演じた際、山岡荘八の『徳川家康』(講談社)を全巻読まれたそうですね。

 滝田 もともとは『レ・ミゼラブル』が世界で一番長い小説で、それを山岡先生がもっと大きなドラマがあるから、といって『徳川家康』に挑戦されたと聞いています。僕は、その両方を演じたのですけど。(笑)

 ――役を演じるために、「徳川家康」では、お寺で修行をされたとうかがっています。

 滝田 原作とシナリオに、家康が竹千代と呼ばれた少年時代、臨済寺で太原雪斎禅師に軍学を学んだとある。でも今川方の大参謀の雪斎禅師が敵方の人質の子に戦の仕方を教えるはずがないという疑問が浮かんだのです。
 それで、僕のインスピレーションというか、すがる思いで、臨済寺を電話番号案内で調べて、「家康を知りたいので、置いてほしい」と電話をしたところ、「ここは臨済禅の僧堂で、開山以来全く変わらない厳しい生活をしているので、一般の方はご遠慮願いたい」と言われました。僕は、「素足で、地面を歩いたら竹千代と同じことを感じるかもしれない、それだけでいいから置いてください」と懇願したところ、「そこまで言うなら一日でも二日でも来てみなさい、ただし厳しいですよ」という返事でした。
 それで、すぐに飛んでいったら、山門が閉ざされていて、「参禅中につき拝観謝絶」とあり、横の潜り戸から入ったら、俗界と全く違う。ある緊張感も伴って、張りつめた空気があった。あと、大きなお寺ですが、塵一つない見事な庭で、400年以上前と全く変わっていない、これは何かあるなと感じました。
 修行僧と庭や本堂の掃除、食事の時間を共にし、彼らの坐禅中は部屋で心行くまで勉強し、そこで原作を読んだりしたわけですが、どうしても疑問が解けない。当時、僕は若く、大河ドラマの主役ということで気分が舞い上がって、馬にまたがり合戦に出ていくような、そんな外面的な英雄像を格好よく見せてやろうといった、雑念、妄想が全身を支配していて、人の苦しみや悲しみを表現する、人間のドラマだということが吹っ飛んでいたのです。
 そんなとき、「ご隠居」と呼ばれていた倉内松堂老師が、「お勉強は捗りましたか。たまには息抜きにお茶でもどうですか」と、お茶に呼んでくださいました。そこで、甘い、渋い、苦いという三杯のお茶を体験し、「甘、渋、苦という三つの味わいをそろえて人生の味わいというんだ」といった話を聞いた後で、一枚の小さな掛軸を掛けられた。
 亡くなられたお釈迦様を囲んですべての生きとし生けるものが涙を流している。「なぜ泣いていると思うかね」と振られたので、「お釈迦様ほどの方になるとお別れが悲しいのでしょう」と答えたら、「そのとおりだ。慈悲という苦しみを楽しみに変えてしまう力を教えてくれた偉大な師匠が旅立たれ、その別れを惜しんでいる絵だ。おそらく雪斎禅師はここで竹千代にこの涅槃図を示して、こういう武将になれと教えたんだと思うが、いかがか」と来た。要するにお釈迦様のごとき慈悲心に富んだ武将になれと、竹千代に教えたわけです。
 そのとき、いつも黙って動かないが、遂に戦国の世を終わらせた家康の根本力がわかった。これさえわかれば、何をしていても、僕はもう家康でいられると確信を得た。それで、お礼を述べて、その日のうちに荷物をまとめて下山して、撮影に入ったわけです。

飯塚先生の根本力は「坐禅」だと解釈した

 ――映画「不撓不屈」出演の要請があった経緯は?

 滝田 NHKの大河ドラマで「徳川家康」を撮り終えて、その後、「レ・ミゼラブル」という舞台でジャン・バルジャンを、14年間帝国劇場で演じて、稽古とオーディションを入れると16年かけたわけです。僕一人でも1000回のステージを超えています。
 僕は、役なら何でもいいという仕事の仕方は嫌で、殺人やセックス、グロテスクな話は自分がやる意味がないと思っていて、「レ・ミゼラブル」の後、人の模範となったり、人の心の糧になるような人物を描く仕事が来るまで、じっとしていたのです。
 そして、僕はシナリオを読んでからでないと出演をOKしないことにしていますが、この「不撓不屈」のシナリオをもらって読んでみて、「これはすごい、人間として大変なドラマだ」と思ったわけです。
 それで、監督、スタッフからシナリオ中心に映画づくりを行うと聞いていたのですが、ご健在の方、あるいは故人が、実際どんな人物であるのか、人生の根本力、エネルギーの質を知りたくなって、原作を拝読しました。
 飯塚先生は、一時代前の怖い国税や検察庁から睨まれても、逃げないで、勇気を持って、迷うことなく言うべきことをきちっと主張して、闘い抜いていたのです。

 ――その根本力は探り当てましたか。

 滝田 森川時久監督が「飯塚さんは、よく坐禅していたらしい」と言ったのを聞いて、それがかなり飯塚先生の根本力になっているのだろうというインスピレーションが働きました。
 そして、もっと飯塚先生の根本力の核心に触れることができないかと思っているときに、映画の監修者でもある寺田さんから『自己探求』(TKC出版)を頂戴しましたね。この本を読んで、「これがこの人を動かした根本力なのだ……」と、「家康」のときと変わらない確信を得て、もう僕は飯塚先生でいられるなと思えたわけです。
 ただ、森川監督は、映画の監督ですから、まじめな人がまじめに生きたというだけのドラマにはしたくない、もっと人間っぽい部分を探り当てたかったらしく、「聖人のような芝居はしないでほしい」と言われました。
 それで、「監督の気持ちはよくわかりますが、坐禅をほんとにやる人は、魂の一番深いところで呼吸して生きているので、何を言っても核心をついてきます。やったことのない人にはわからないくらい、とにかくすごいのです。遊びなどとは、関係のない世界の方ですよ」と申し上げました。

 ――監督からは、他にどんな指示が……。

対談風景 滝田 演技に関しては特になくて、撮り直しもほとんどありませんでした。映像的にイエスかノーが主で、僕としては、ワンカット、ワンカットを、飯塚先生の坐禅で培われた人生観や、肉体の感覚までも何とか自分で体現しようと思って、集中しました。
 あと、福島高等商業学校や東北大学の学生時代、あまり学校には行かないで下宿先で独学されたいきさつを本で知ったときに、ひたすら自己鍛錬も進めていくという、僕なりの像がありました。

 ――今度の映画では、飯塚先生の厳しさより、優しさが表現されたような気がしますね。

 滝田 裁判で無罪判決を勝ち取ったときに、ご主人をねぎらうために、薔薇の棘を抜いて冠をつくって、かぶせてあげるというあの「薔薇の冠」のシーンは、ほんとなのというくらいの出来事ですよね。ああいうことを奥さんにさせる人間って、すごいと思いますよ。飯塚先生が奥さんを大事にされていたからだろうし、冗談一つ言うときも、怒るときも相手を尊重した言い方だったと思うのです。
 奥様、るな子さんが、飯塚先生に捧げられた短歌もすごい。およそ俗人の域を超越したご夫婦で、家族の深い絆があったから、あれだけの事件に遭遇しても、みんなで手を携え合い、心を一つにして頑張れたと思うのです。
 それが、一番最初のシナリオを読んで何か取り違えているところがあるのではないかと、僕なりに本能的に感じたのは、飯塚先生がホテルに籠もっているところへ、るな子さんが訪ねてきて、昔を思い出して、普通の男女の関係に戻ったように書かれていたところです。
 これはマスコミ人と現代人が陥っている病気です。崇高なものを崇高としないで、俗物として扱い、自分との共通点を探り出す方向に、ものづくりが行ってしまっている。でも、美しいものは美しいでいいじゃないですか。

 ――もう一つのホテルでのシーン、「真玄の約束」の手紙はどう受けとめましたか。

 滝田 初めて本を読んだときに涙が止まらなかったシーンです。薔薇の奥さんも奥さんですが、子供たちも子供たち。ここまでちゃんと家族と向き合い、お互いを大切にし合っているなんて、とてもうらやましいですね。子供から一生に一度の手紙をもらう父親としては、心がいっぱいになって感情が激するシチュエーションです。森川監督も、みんなを集めて「一回しか撮らないよ」と言ってくれ、すごい緊張感で集中できて、本番はほんとに一回で終わりました。僕としては非常に乗った場面です。

 ――『自己探求』で共鳴された箇所は?

 滝田 飯塚先生の人格形成に影響を与えた坐禅の力、植木義雄老師との交流、それから、貧しい環境の中で強く温かく育て上げられた、ご両親との関係ですね。お父さんには「弱いお前の体を鍛え直さなければならない」と言われ、毎朝4時に起床して一緒に山野や川岸を歩いたり、お母さんからは「私が三度の食事を二度に切り詰めるから上の学校へ行かせてやりたい」と、僅かなお金を貯めて仕送りをしてもらったことなどですね。今のだめな大人たち、子供たちが失っている手本がここにあります。

飯塚るな子夫人と会い
心の底から納得できた


 ――共演者について、まず松坂慶子さんをどうお感じになりましたか。

 滝田 僕が初めて出演した大河ドラマは、昭和53年の「草燃ゆる」です。伊東十郎祐之という、悪役三昧をして、権力から目をえぐり抜かれ、野に捨てられて、それでも生きて、最終的に平家物語を吟じた男という創作のキャラクターですが、恐らく大河ドラマ史上最高傑作のドラマチックな役だと思います。その男が、川のほとりに捨てられていた小娘を拾って、「レ・ミゼラブル」のあのジャン・バルジャンがコゼットを育てるように、なぜかこの子を大切に育て上げるのです。それが若き日の松坂さんでした。
 女優さんというと、「私が、私が」と自己中心的なコミュニケーションを取る人がいる中で、素敵な女性になったというか、ああいう自分を一歩退いたうえで存在感のある役ができる方は、ほかにいないと思います。
 飯塚るな子さん役は、普通の女優さんではできないですよ。他の女優さんが薔薇のシーンを演じたら、漫画になっちゃいます。(笑)それを松坂さんは、気取りも、気負いもなく、ごくごく自然に、あの薔薇の冠をつくって僕の頭にかぶせてくれましたが、人間としてかなり成長した方じゃないと……。
 松坂さんが、るな子さんの若い頃に似ていると聞きました。確かに、顔かたちで似ている部分もありますが、それよりもその人が発するエネルギーの質、存在感について、るな子さんと松坂さんが同じだということです。
 実は、薔薇のくだりを拝見して、こういうことを平気でできるるな子さんとはどういう人か、僕は会うのが怖かった。イメージが壊れたらどうしよう、みたいな。(笑)しかし、ご本人にお会いした瞬間、ああよかったと、心の底から納得できました。

 ――三田村邦彦さんについては?

 滝田 「必殺仕事人」のシリーズで三田村君は飾り職の秀、僕は実在の朝右衛門という介錯人を演じていて、古い仲です。小池一夫さんは「首切り朝」という劇画で、この朝右衛門を非常に魅力的に描いています。
 僕は今回の台本を読んで、そこまで相手を執拗に追いつめる人は、どこか問題があるのだろうと感じました。実際の三田村君はかなり素直で、真っすぐな人だから、この屈折した人をどう演じてくれるのかなと思ったら、なりきって、ずいぶん楽しんでいましたね。
 フォルテシモでのチャンチャンバラバラのやり合いは結構簡単にできますが、あそこまでいびられても、激しく言い返せない関係だから、ピアニシモでの闘いですね。そういう情況でも言葉を発していかなければいけない。本当の飯塚先生はピアニシモでもフォルテシモでも、何でも来いという方なのでしょうが。
 この度の出演者の皆さん、端々まで本気の本気で。キャスティングの妙というんですかね。(笑)すごいなと思いましたよ。

 ――撮影終了後に、飯塚先生の講演CDを2枚渡されて、どう思いましたか。

 滝田 飯塚先生の口調があそこまで激しいとは思
ませんでした。あのトーンの心理は、坐禅の体験者でないと聞き取れない。普通の人が聞いたなら、ただエネルギーを押し通しているような、がらっぱち的な、妙なデッサンをして、およそ違う人物ができていたかもしれません。だから、「最初に聞かなくてよかった」と僕は思いました。

飯塚先生の生き方が大きな示唆を与える

 ――この映画を通して、滝田さん自身何か学んだことはありますか。

 滝田 勇気をもらいました。日本人にこんなにすばらしい人が最近までいたんだという。
 実は、ずるい人たち、虚構がまかり通る社会にもっともっと進んでいくような絶望感があって、立派に生きた人を主人公にしたドラマや映画はもうできないのか、自分ももう必要とされてないのかなと思っていたのです。
 そのときにお会いできたものですから、うれしいというか、待っていてよかった、「呼ばれたのかな」と。(笑)「徳川家康」の家康、「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャン、「マリコ」というドラマで、戦争を止めようとした寺崎英成という外交官を演じたときも「呼ばれた」という感じがしました。すばらしい仕事をさせてもらったときに、キャラクターに呼ばれたという感じがするものです。
 僕は賞をもらったり、お金をもらったりしても、あまりうれしくありませんが、役にこういう大きな共鳴ができたときはほんとにうれしいのです。この仕事やってよかったという気持ちになれる。とても名誉なことです。
 また、飯塚先生の生き方は、日本が浮上するか墜ちていくかの大事な分岐点のときに、大きな示唆を与えてくれると思うのです。

 ――仕事を選んだり、人の心を動かすような作品にしたいと思い始めたのはいつですか。

 滝田 どうして芝居をやるのかという思いが浮かびましてね。有名になるためか、お金を稼ぐためか、ちやほやされるためなのか。本気で時間と命とを使って演じれば、本当に感動を分かち合えるような作品に仕上がるのではないかと思うようになったのです。
 19歳のときに劇団の文学座の養成所に入ったときに三國連太郎さんの付き人をしていた同級生から、「滝田君、芝居をするってどれくらいすごいか知ってる? うちへ来て勉強するかい」と言われて、三國さんの留守に、ご自宅を訪ねたことがあります。
 そのとき三國さんは、芸術祭参加の「わが父北斎」という葛飾北斎を描いたドラマの撮影中で行方不明になったそうです。年老いた北斎が海を見て、その波を描こうとしても、描けないというワンシーンにしたいのだけれど、心ができないからカメラの前に立つわけにいかないという情況で……。
 そして、2週間ほどして、「役の準備ができた」と言って自宅に戻ってこられ、ポパイのような顔をしているので「どうしたのですか」と尋ねました。すると、「役者というのはできる準備は何でもしておくものだ。必要ならその場で歯を抜くし、頭髪も剃り落とす」と言って、ワンカットのために自分の歯を全部抜いて、腫れた顔になったというのです。
 三國さんと偶然そういう縁をつくっていただき、芝居ってすごいなと思った。ここまでやるのかと。そのことで、僕の意識がどんどん変わっていったのです。
 同じ頃、狂言の六世野村萬蔵さんから「若いときにどうしても思うように演技ができなくて、その日うまくいかなかったら腹を切って死のうと思って短刀を袖に置いて舞台に立ったことがある」と聞いたのです。そのときに、「俳優ってそこまでやるのか」と。僕は当時19歳、20歳で、演劇観、演技観が変わっていきました。
 その後、和田勉さん演出の近松門左衛門の「心中宵庚申」に、僕は太地喜和子さんと一緒に出演したのですが、そのとき和田さんが「お芝居とは?」と聞いたときに、太地さんは「お祭りです。フェスティバルに参加するようなもの」と答えました。僕が「ただ、ひたすら本気で突っ込んでいくのがおもしろい」と答えたら、和田さんから「宗教みたいだね。侍に例えると忠勇無双という言葉がふさわしいかな」と言われました。
 で、僕が役を「何のために?」と考えるようになったときに、命がけでやったときに答えが出る、「生きていてよかった。人はすばらしい」と、人間をきちっと肯定できるような作品をつくりたいものだと思いました。

ドイツ語の飯塚先生の講演で
スタンディング・オベーション


 ――森川監督とは何度か……。

 滝田 僕が役者としての活動を始めて間もなくの20代の頃、映画の主役に一度選んでくれたのです。ところが僕はほかの仕事に関わっていて、実現することができないでいました。それがようやく「不撓不屈」で一緒に。

 ――撮影現場は縦社会ですが、スタッフの方々は生き生きと取り組んでいますね。

 滝田 日本では、考える必要がないから縦社会になりがちです。僕も修業時代の10年以上を、演出家に「そこから3歩右へ行って、こっちへ向いてにっこり笑ってくれ……」などと言われて、一歩違えると物を投げつけられたりするような上下関係を経験しました。
 ところが、世界最高の当たりを飛ばしたミュージカル「レ・ミゼラブル」日本公演のオーディションに合格したときに、ロイヤル・シェイクスピアのジョン・ケアードというディレクターから「公演中、今日やってうまくいったから、明日も同じことを繰り返そうなんて思わないでくれ。明日は明日。日々一カ所でいいから違うことに、自分で工夫しながらトライしてほしい。それが芝居だ。楽しんでほしい。その代わり、集団プレイだから、自分が実験するときは、それを必ず前もって、相手役に伝えてほしい」と言われたのです。それで、一晩考えて、毎日違うように演じてみると、「すばらしい」、「すばらしい」、「エクセレント」と言ってくれ、今までにない演劇の成功をおさめることができました。

 ――「不撓不屈」のドイツ語でのスピーチも、すばらしい出来映えと評判ですね。

 滝田 ドイツ語はマスターしなければいけないのは当たり前ですが、それよりも飯塚先生の人間性をあらわす言葉がドイツでの講演の中にふんだんに入っていて、抽象的に演技をしても映画の観客には伝わりません。その自分の気持ちをすべて置き替えたのが、「人間の成熟なくして、税務の成熟なし」等のフレーズです。それら飯塚先生をつかまえるヒントが大きく詰まっていたので、これを完璧に演じれば、ほかは大丈夫だなと。

 ――ドイツ語のトレーニング法は?

 滝田 アー・ベー・ツェーも全く知らなかったのですが、慶應義塾大学のドイツ語の先生に、「これだけの台詞を喋るのですが、私に教えてほしい」とお願いしました。するとその先生は「今日はアー・ベー・ツェー・デー・エー・エフ・ゲーをゆっくりと正確に読みましょう」と言われました。次に、飯塚先生の講演の台詞を超スローで一音一句間違えずに。そして、標準の、おそらく飯塚先生が話したであろうスピード。この3種類をそれぞれ録音してもらったので、「次回までに全部覚えておきますから」と言って、自宅で繰り返し、繰り返し練習しました。
 それで、知り合いのドイツ人女性にも会う機会があったので聞いてもらったら、「ドイツ人だってこんなに難しい言葉を使わない。すごい。どうやって覚えた?」と聞かれて、「生活がかかっているから」と答えた。(笑)
 ドイツでの講演のシーンは、すごく集中が必要で、がさがさしていたら演じられない。それで、中西健二助監督が「静かに語るから、真剣に聞いてほしい」とドイツのエキストラ数百人にドイツ語で伝えてくれました。それで撮影が始まると、皆さんが心して聞いてくれているのがよくわかった。台詞が終わったときに、大半の方が涙を流して拍手して、スタンディングオーベーションです。
 そして、ドイツでのロケ終了後、電車でオーストリアに入って向こうの友人と山登りをした際に、「ドイツでドイツ語の講演をしてきたんだ。ちょっと聞かせてやろうか」と言ったら、ホテルに村人たちを集めて飲み会を開いてくれそこで話したら、全員がサーカスか、マジックを見るような目で僕を見て、またスタンディングオーベーションでした。(笑)

「レ・ミレゼラブル」を終えて
インドで2年間自己探求を


 ――宗教の世界に興味を持ち始めたのはいつ頃ですか。

 滝田 僕は真言宗智山派別格本院成田山新勝寺、お不動様のお寺が経営している成田高校に入学しました。その頃、お寺で新しいお堂が建つと掃除の手伝いに行ってお坊さんと話をしたり、木造の古い図書館の前を通ると、当時の館長から「いいものがあるから見て行きなさい」といって、弘法大師の実筆のお経を手にとって見せられたり、すごい体験をさせていただいたことがあります。

 ――インドに2年間、行かれたそうですね。

 滝田 家康の撮影を終えたときに、いつか僕も坐禅をやってみようと思っていましたし、臨済寺の境内を一緒に掃いていた当時の修行僧、阿部宗徹老師は、臨済寺住職と花園大学学長となりましたが、これまでずっと僕の成長や変化をみつめてくれています。
 その後、立派な人、偉い人を演じても、自分自身まだ足りない、僕自身の人生は意味がなくなってしまうのではないかと思って、いつかお寺に入って、心ゆくまで坐って、自分と相対してみる作業をしてみたかったのです。
「レ・ミゼラブル」は前日まで愚かだったのに、司教と出会い、心を入れかえて、今日からはよく生きようと思った男の物語で、「生まれ変わるんだ!」という絶叫がテーマになっているのです。16年間それを演じて、若い人に交代する頃に、多くの人たちが滂沱の涙で感動してくれた。帝国劇場のお客様が全員立ち上がって拍手をしてくださったのです。
 その「レ・ミゼラブル」を終えた同じ年に、20年間司会を務めた「料理バンザイ!」という番組が、スポンサーの不祥事で突然終了していたのです。これらは残念な出来事ではあるのですが、そのときチャンスだと思った。
 仕事も一旦すぱっと切れたので、自分はどのくらいのものなのかというのを、探ってみたくて……。一人になってみないとだめだ、誰も知らないところに行って、胸に手を当てて坐ってみようと思って、サンスクリット発祥の地と言われる南インドのアンダラ州へ行きました。古代からのインドの聖者がその地域から多く生まれ育っていると言われるところで、お釈迦様の仏蹟を訪ねながら2年間坐りました。(笑)
 その後も長野市の大本山活禅寺の門弟として、禅の修行に打ち込んでいます。大勢の人たちと坐禅をしたあと、インドで修業中に食した乳粥を味わいながら、現代人としての正しい生き方を探求しているのです。

母親の死を契機に仏像を彫り続ける

 ――大僧正の瀬戸内寂聴さんが「滝田さんは、俳優としてはどうだか知りませんが、仏師としての腕は本物ですよ」とおもしろく述べております。仏像の彫刻を始めた理由は?

 滝田 瀬戸内先生とは、雑誌等で対談したり、僧侶になるよう勧められた仲です。(笑)
 僕の母は100人もの弟子に着物の仕立てを教えていましたが、4人目の僕を身籠もったとき、生まれつきの心臓弁膜症が発覚し、医者から出産を止められてしまうのです。それでも命がけで産んでくれたのが僕で、彼女が心臓の持病を悪化させ、入院する度に、死を強く意識するようになりました。そんな母が亡くなったとき、何と感謝をしてよいかわからず、どう供養しようかと思案していたのです。
 そんなある日、以前、宮本武蔵をドラマで演じたときに、武蔵が観音像を彫っていたシーンを思い出して、「そういえばうちの母も観音様が好きだったな」と、観音様に願いを込めて、下手なりに彫ってみたいと……。
 すると、ある仏師との縁ができて、「鉛筆をナイフで削れる指先があれば、誰でも仏像は彫れます」と言われ、その日のうちに小さな角材と彫刻刀を何本かもらってきて、先生の作品を手本にして彫ったら彫れたので、母の仏壇の隣に置いて供養しました。
 それから数年後に父が他界し、「今度はもう少し大きいのを彫ってみよう」と思い、母のときより約3倍の仏像を1週間で彫りました。そのように供養のために始めたことに嵌ってしまい、仕事の合間に時間ができると仏像を彫るため八ヶ岳の山荘を訪ねています。
 今は僕の等身大の仏像を彫っています。

 ――抜刀術(居合)の有段者であり、時代劇の殺陣で剣術を使う場面には本物の技を披露することもあるそうですが。

 滝田 萬屋錦之助(中村錦之助)さんの立ち回りがすごいとかねがね思っていて、どういう練習をしているのか調べたら、居合いを兼ねて真剣を使っていると聞いて、それを超えるには型ではなくて実際に切るしかないと。それで、竹や巻藁、最終的には柱や鉄を切りまくって、真剣を何本か壊したほどです。
 木刀と真剣の違いを体感し、真剣の扱いを体得しました。
 福岡ソフトバンクの王貞治監督は読売巨人軍の現役時代、フラミンゴ打法をマスターするのに荒川博打撃コーチから「バットの芯を覚えろ」と言われて真剣で練習しました。刀の場合は芯でなく、刀尖、刃筋と言うのですが、身幅という刀の幅はそんなにない。厚さが数ミリです。その中心線は僅かで、それが通れば切れるのですが、それが少しでも反っていると、刀が曲がってしまいます。
 刀の芯を極めてしまえば、野球の球を芯に当てるのは容易だと思います。それを極めたわけですから、王さんはすごい。(笑)。

強制だと成長が止まる
自主性や独立心が大事


 ――マラソンの増田明美さんが「恩師の滝田詔生先生が亡くなる4日前に、『のんびり行けよ』と言ってくださった。この人には絶対いてほしい、という人がこの世からいなくなると寂しいが、一瞬一瞬を大切に一生懸命に生きなければという気持ちが芽生えた」と自らのホームページで語っていますね。

 滝田 兄詔生は、成田高校から大学へ行き、日本記録を出すような一流アスリートでしたが、世界では勝てませんでした。兄が現役の頃、東京オリンピックの男子100メートル走で金メダリストのボブ・ヘイズ選手は、チューインガムを噛みながら耳にイヤホンをして音楽を聴きながらといったトレーニング方法で世界記録を出したわけです。
 兄は成田高校に戻って、マラソンの増田選手やハンマー投げの室伏広治選手など多くの選手を育てたのですが、僕から見て、監督やコーチが怒鳴って、動物の訓練で記録を出すような方法がいいとは思わなかった。
 兄はゴリラのような顔をして、強力な個性の持ち主、兄弟でも怖くて口が利けないような関係だったので、世界を目指しているときに言いたかったけれど言えなかった。
 それで、死の1週間ほど前に、病院の個室で「人に命令されて動いたとして、日本なら通用するかもしれないが、世界では、自分の発想で楽しめる状況でないと好記録は生まれないのではないか」と言ったときに、兄貴はしばらくトイレに入ったままでした。そして、出てきたら、「栄、おまえの言うことはよくわかる。ただ、俺は一人の選手を見て、この子は世界のトップに行くな、この子は日本の何番だなと、瞬間にわかってしまう。だけど、その能力を引き出すためには、かなりきつい練習をしないと到達できない。お前の目からは、強制と見えるかもしれないが、うちの生徒たちは、つらいと思っても自分で超えようとする意思を持っている。何のためにやっているかもわかっている。だから、決して強制ではないんだ」と言いました。最後は室伏君を病院の枕元に呼んで、「お前の時代が来るぞ」と言い、オリンピックでの金メダルを予想して、55歳という若さで早逝したのです。
 兄の話にも一理あります。しかし、日本式のトレーニングは師匠の指示通りに動くのが良いと信じ込んで、黒いものも白だと言いながら頑張って、あるところまで行きますが、それだと止まってしまう。俳優も、命令されないと動けないようになるのです。
 でも、「レ・ミゼラブル」で、ロイヤル・シェイクスピア、ヨーロッパの本当に歴史あるところで頑張っている人たちと仕事をしたときに、「演技はプレイだ。絶対に自由を失わないでほしい。限界を楽しんでほしい。で、絶対に同じことを繰り返さないでほしい」と言われてそうしたら、16年間マンネリに陥らず、毎日真剣勝負で舞台に上がれました。
 飯塚先生も、税理士法の第1条に「独立性」の文言を入れることに尽力されたそうです。どんな仕事でも、自主性や独立心が大事ではないかと思います。

滝田 栄(たきた・さかえ)氏 プロフィール

昭和25年12月5日千葉県生まれ。中央大仏文科を中退し、文学座養成所から劇団四季を経て独立。テレビでは「草燃ゆる」「なっちゃんの写真館」「徳川家康」「マリコ」など多数出演。舞台は「レ・ミゼラブル」の主演ジャン・バルジャンを初演以来16年間、「料理バンザイ!」の司会は20年間務める。陶芸や仏像彫刻など、趣味多彩。抜刀術は四段の実力派。著書に『滝田栄の手料理まるごと』(講談社)等がある。本年6月公開予定の映画「不撓不屈」の主演を務める。

(構成/TKC出版 土屋雄二郎)

(会報『TKC』平成18年6月号より転載)