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1.ドメインの発掘
【カオスと原点】
現在の日本経済の危機的状態を「カオス」(混沌の状態)と呼ぶならば、そのような状態において的確に意思決定することは困難を伴う。かかる意思決定に困難性を伴うとき、計画が行き詰まったとき、あるいは、本来の目的から外れてしまったときなど、古人は、
「原点に立ち返って、考えよ」
と教えた。
「原点」に立ち返ってということは、自己の元々の「陣地」(ドメイン)――得意領域――に戻って、「脚下照顧」せよ(いたずらに「真理」を「外」に向かって追い求めるのではなく、自らの「内」なるものに求め、自己の本性を見つめよ。)ということを意味し、あるいは、本来の自己のドメインとは何であったかを見いだせということにも、つながっていると解するものである。自己の最も得意とする領域から、足下を見つめ、行くべき目標を再発見するようにと教えていると解してよい。
わが国の場合、原点が従来往々にして「外部目標」に置かれてきた。例えば、明治維新における新生日本の出発点は、西欧文明というモジュール(機能的にまとまりのある部品)があり、それを目標にした改革であったといってよいのではなかろうか。
現在のわれわれの環境要件からみると、原点を外部目標に置くのではなく、却って、「内部目標」にそれを求めるべきであろう。「原点に立ち返って、場面を切り開く」には、ドメインの発見による「内部目標」の確立にあると考える。
2.ドメインの再発見
【「目標」設定の必要】
いま自分に何ができるのかを発見するためには、まず「目的」ないし「目標」を持たなければならない。その「目的」に向かって行動する。失敗したら、何らかの解決策をそこに見いだす。
われわれが「新たな戦略」を模索し、あるいは、「新たな目標」の上に立って経営改革を試みようとする場合、なにか改めて経営学を学び、哲学をものにする以外に、新たなものを発見することができないのではないかと考えるかも知れない。
しかし、「真理」、「真の方針」、「正しい目的」、「新たな目標」、「斬新な戦略」といったものが、われわれから遠い世界にのみ存在し、簡単には入手できないものと考えられがちであるが、実はそうではない。「自己の周辺」、「身近な事例」、「一般の小説」等、誰でもが入手し、利用可能なものの中にこそ存在するということを知らなければならない。
ここでは、多くの読者を得た夏目漱石『草枕』を題材に取り上げ、カオスといわれる現代の経営における目標設定に当たり、あるいは、意思決定に当たり必要とされる基本がそこに書かれていることを見いだすためのひとつの試みとして提示したい。
【夏目漱石『草枕』に学ぶ】
夏目漱石『草枕』(岩波文庫)から、現代にも通ずると思われる一文を次に引用したい。
「山里の朧に乗じてそぞろ歩く。観海寺の石段を登りながら仰数春星一二三と云ふ句を得た。余は別に和尚に逢ふ用事もない。逢うて雑話をする氣もない。偶然と宿を出でて足の向く所に任せてぶらぶらするうち、つい此石磴の下に出た。しばらく不許葷酒入山門と云ふ石を撫でて立つて居たが、急にうれしくなつて、登り出したのである。
トリストラム・シャンデーと云ふ書物のなかに、此書物ほど神の覺召に叶うた書き方はないとある。最初の一句はともかくも自力で綴る。あとは只管に神を念じて、筆の動くに任せる。何をかくか自分には無論見當が附かぬ。かく者は自己であるが、かく事は神の事である。從つて責任は著者にはないさうだ。余が散歩も亦此流儀を汲んだ、無責任の散歩である。只神を頼まぬ丈が一層の無責任である。スターンは自分の責任を免れると同時に之を在天の神に嫁した。引き受けて呉れる神を持たぬ余は遂に之を泥溝の中に棄てた。
石段を登るにも骨を折つては登らない。骨が折れる位なら、すぐ引き返す。一段登つて佇むとき何となく愉快だ。それだから二段登る。二段目に詩が作りたくなる。黙然として、吾影を見る。角石に遮られて三段に切れてゐるのは妙だ。妙だから又登る。仰いで天を望む。寐ぼけた奥から、小さい星がしきりに瞬きをする。句になると思つて、又登る。かくして、余はとうとう、上迄登り詰めた。
かうやつて、美しい春の夜に、何らの方針も立てずに、あるいてるのは実際高尚だ。興來れば興來るを以て方針とする。興去れば興去るを以て方針とする。句を得れば、得た所に方針が立つ。得なければ、得ない所に方針が立つ。しかも誰の迷惑にもならない。是が眞正の方針である。屁を勘定するのは人身攻撃の方針で、屁をひるのは正當防禦の方針で、かうやつて観海寺の石段を、登るのは随縁放曠(おおらかに縁に従うこと:筆者)の方針である。
仰数春星一二三の句を得て、石磴を登りつくしたる時、朧にひかる春の海が帯の如くに見えた。山門を入る。絶句(起・承・転・結の四句からなる定型詩:筆者)は纏める氣にならなくなつた。即座に已めにする方針を立てる。」
【『草枕』にみる「方針」の設定方法――意思決定論】
上で掲げた引用文の中から、経営問題に関わる「方針設定」ないし、「意思決定」に関連すると思われる文章を抽出し、若干の解題を試みたいと思う。
(1)「山里の朧に乗じてそぞろ歩く。観海寺の石段を登りながら仰数春星(あふぎかぞふしゅんせい)一二三と云ふ句を得た。」
《解釈》 現代という社会が「山里の朧」に似て、春の宵にぼうっと薄くかすんだような先行き定かでない中を、確信を持てないまま「そぞろ歩く」に似て、方針の定まらないまま彷徨う過程が日常であるかも知れない。そんな中で、ふと出会った場面で思い浮かべるような「案」が心をよぎることがある。それは、「観海寺の石段を登りながら」思い浮かんだ「仰数春星一二三と云ふ句」に等しいもので、未完成であってもよい。何らかの目標を持つことが必要だ。だが、それは確定したものである必要はない。
《再解釈》 意思決定の基本は、確定的な・完全なものから出発する必要はなく、思いつきであっても「当座の目標」(達成可能な目標)を設定した上で出発することが必要となる。
(2)「最初の一句はともかくも自力で綴る。あとは只管(ひたすら)に神を念じて、筆の動くに任せる。何をかくか自分には無論見當が附かぬ。」
《解釈》 最初の目標はなんとか自分なりに作ることができても、その先のことは、見当がつかないので、神に念ずるような気持ちで、焦らず、最初に立てた目標に向かって自由に活動する以外に道はない。
《再解釈》 最初に設定した「当座の目標」(達成可能な目標)に沿って、情報を収集し、自己の行動を絶えずチェックしながら、前進する必要がある。
(3)「余が散歩も亦此流儀を汲んだ、無責任の散歩である。只神を頼まぬ丈が一層の無責任である。スターンは自分の責任を免れると同時に之を在天の神に嫁した。引き受けて呉れる神を持たぬ余は遂に之を泥溝(どぶ)の中に棄てた。」
《解釈》 意思決定には絶えず責任を伴う。責任を「在天の神に嫁した」のでは、自己責任原則に沿うものではない。「神を頼まぬ丈が一層の無責任である」と漱石は述べているが、「無責任」の極限はそのすべての責任を引き受けることにつながると考える。つまり、自己責任原則の貫徹である。このことを漱石は、「引き受けて呉れる神を持たぬ余は遂に之を泥溝の中に棄てた。」と、逆の表現を使っているものと解される。
《再解釈》 市場原理のもとでの経済人の意思決定は、すべて「自己責任原則」に従う。
(4)「石段を登るにも骨を折つては登らない。骨が折れる位なら、すぐ引き返す。」
《解釈》「石段を登るにも骨を折つては登らない」という漱石の考え方は、現代の若者達が仕事はすべて楽しくなければしないという気構えに似たところがあり、昨今の仕事への取り組み方に共通するものがあるように思われる。
ベッカ・ヒマネン著『リナックスの革命』(河出書房新社、平成13年)では、仕事の価値観について、興味深いことを述べている。
「われわれの従来の労働倫理を支えてきたものが、「プロテスタント的労働倫理」であった。そこではマックス・ウエーバーのいう禁欲に基づく労働倫理(義務としての労働=苦役)が支配的であったが、最近では、ハッカー的労働倫理観によると、そのような労働倫理に代わって、楽しみが人を仕事に駆り立てるものだという考え方に変わりつつあるという。直接、楽しみを労働の目的とするようになると、自然に金銭への執着も薄くなっていく。金銭に代わって、仲間による高い評価(賞賛)に重きを置くようになる。」
ここでハッカーというのは、1980年代に、マスコミが作り出したコンピュータ犯罪者の意味においてではなく、ソフトウェアの開発をはじめとして、あらゆる種類の専門家もしくは熱中家という意味においてであり、情報時代に一般化しつつある仕事との情熱的関わり方を指すに相応しい名称として使われている。
いま、ハッカー的労働倫理観を、現代の若者の労働倫理観として置き換えてみると、現代の一面が浮き彫りにされるように思われる。
《再解釈》 仕事を「義務」としてではなく、「楽しみ」として捉えるところに、新たな発見がある。そのことは、次に掲げるような言葉として表れてくる。
(5)「一段登つて佇むとき何となく愉快だ。それだから二段登る。二段目に詩が作りたくなる。黙然(もくねん)として、吾影を見る。角石に遮られて三段に切れてゐるのは妙だ。妙だから又登る。仰いで天を望む。寐ぼけた奥から、小さい星がしきりに瞬きをする。句になると思つて、又登る。かくして、余はとうとう、上迄登り詰めた。」
《解釈》 どのような方向性が見えだし得るか分からないが、楽しく仕事に勤しむことで、日々が愉快になる。仕事が愉快になるということは、仕事に張り合いを見いだしたということであり、事業的観点からそれをみれば、新たなドメインを切り開きつつある過程につながる。
階段を一歩登るたびに、新たな眺めが広がり、新たな発見がある。その僅かな発見をコアとして、次のステップへと進んでいく。漱石のいうように、「一段登つて佇む」とき、新たな眺めが開き、「何となく愉快だ」ということになるのである。
段階を踏む毎に、より高い別の世界が広がるというのである。「二段目に詩が作りたくなる」という漱石の表現は、まさに一段目と二段目との「質」の差を説いていると考える。そのような状況ができてくると、真剣に自らの存在に気が付いてくる。「黙然として、吾影を見る」となる。それまでは気付かなかった自らの影――自我の抽象化された真の姿――を見いだす。
その周辺との質的差異について気が付くことは、いままでになかった何かに出会った瞬間である。「角石に遮られて三段に切れてゐるのは妙だ」という表現で、新たな境地の開かれる様を表している。
そのようなレベルに達することで、他との違いを一層追求すべく、更に一歩前進して、天を仰ぐが如く洞察を深めることができる。「妙だから又登る。仰いで天を望む。寝ぼけた奥から、小さい星がしきりに瞬きをする。」というように、そのレベル以下の段階では見えなかった「小さな星の動き」を感知することができるようになる。漱石は、「寝ぼけた奥から、小さい星がしきりに瞬きをする。」と書いているのは、そのような情景を指している。まさに、これまでは見えなかった新たな世界が、意識の上に現れる。一段、一段と階段を登るにつれて、「閾域」(しきいき)(threshold:ある刺激に対して生体が反応するレベル)が変化する。つまり、自分の意識に登る世界が違って見えてくるのである。
こうなってくると、しめたものである。何か「もの」になるようなコアを掴んだ瞬間でもあろう。従って、一層それが弾みとなって、前進する。漱石によると、「句になると思つて、又登る。かくして、余はとうとう、上迄登り詰めた。」ということで、目標達成が期待できることになる。
《再解釈》 自我(意思決定者)と彼我(ひが)(自然・世界:意思決定者を取り囲む世界)との関わり合いの中で、小さいけれども何か新たなことに「気付く」ことが、成功への第一歩となる。
(6)「興來れば興來るを以て方針とする。興去れば興去るを以て方針とする。句を得れば、得た所に方針が立つ。得なければ、得ない所に方針が立つ。」=「是が眞正の方針である。」
《解釈》 経営方針にせよ、経営計画にせよ、自ら関心をもって取り組まなければならないのであるが、そこで「興來れば興來るを以て方針とする」というのは、「新たな方針」に思い至れば、それをもって経営方針とすればよし、また、「興去れば興去るを以て方針とする」とは、何らかの理由で「設定した経営方針」に問題があり、実行し得ないと感じたときは、「その方針」を棄却することをもって「方針」とすればよいというのである。
自然体での「物の考え方」の中にこそ、正しい経営方針の有り様を探り当てることができるといっているように思われる。
これこそが「眞正の方針である」ということになる。
《再解釈》 経営計画は、固定的なものであってはならず、そのとき時の状況関連において弾力的に設定・運用されなければならないものである。その意味において、経営計画や戦略設定は、ソフトな性格のものであることが理解できる。
(7)「仰数春星(あふぎかぞふしゅんせい)一二三の句を得て、石磴を登りつくしたる時、朧にひかる春の海が帯の如くに見えた。山門を入る。絶句(起・承・転・結の四句からなる定型詩:筆者)は纏める氣にならなくなつた。即座に已めにする方針を立てる。」
《解釈》 当初目標とした「石磴を登りつくしたる時」、これまで見えなかった「朧にひかる春の海が帯の如くに見え」、美しく思えた。「よしこれで行こう」と考え「山門を入る」。つまり実行に移す。しかし、その決定の善し悪しに疑問を感じたとき、方針転換を考える。すなわち、「絶句は纏める氣にならなくなつた」という表現で、そのとき時で即座の対応が必要であることが述べられている。そのことは、結論的に「即座に已めにする方針を立てる」という形で対処すべきことを、漱石は語ってくれている。
《再解釈》 経営計画がかなり順調に進んでいるように見え、それなりの成果を挙げ得たとしても、その成果にいつまでもこだわりをもってはならない。漱石は「石磴を登りつくしたる時」、すなわち、所期の目的を達成できたとき、そのことにいつまでもこだわりをもってはならず、「良きときにこそ」すぐさま次の手を模索しなければならないことを示唆しているように思える。パラダイム転化の極意を諭しているように感じられる。
3.むすび
以上、漱石の一文を手がかりに、そこで展開されている「方針」の設定および変更の考え方が、現代経営学における「経営方針」や「経営計画」の設定・変更に通ずるものがあることを指摘してみたところである。
再度、次のように、要約しておきたい。
(1)目標設定の必要性
意思決定の基本は、確定的な・完全なものから出発する必要はなく、思いつきであっても「当座の目標」(達成可能な目標)を設定した上で出発することが必要となる。
(2)目標に照らしながら行動をチェックすることの必要性
最初に設定した「当座の目標」(達成可能な目標)に沿って、情報を収集し、自己の行動を絶えずチェックしながら、前進する必要がある。
(3)行動にはすべて責任を伴うこと
市場原理のもとでの経済人の意思決定は、すべて「自己責任原則」に従う。
(4)仕事は喜びを持って実行することだ
仕事を「義務」としてではなく、「楽しみ」として捉えるところに、新たな発見がある。
(5)その置かれている「場」の局面で、何か新たなものを掴むことが必要だ
意思決定者と彼を取り囲む世界(経済社会状況)との関わり合いの中で、小さいけれども何か新たなことに「気付く」ことが、成功への第一歩となる。
(6)計画は状況関連的に弾力的に運用されなければならないこと
経営計画は、固定的なものであってはならず、そのとき時の状況関連において弾力的に設定・運用されなければならないものである。その意味において、経営計画や戦略設定は、ソフトな性格のものであることが理解できる。
(7)良きときにこそ、パラダイム転化が求められること
経営計画がかなり順調に進んでいるように見え、それなりの成果を挙げ得たとしても、その成果にいつまでもこだわりをもってはならない。「良きときにこそ」、すぐさま次の手を模索しなければならない。これがパラダイム転化の極意であるといえる。
このように、漱石が観海寺の石段を「人生行路」とみなして語った一齣(ひとこま)は、まさに「経営計画」の設定・運用や「経営の意思決定」、あるいは「経営改革」の場に応用可能な考え方が示されている。その際、おおらかな自由な気持ちを持って、与えられた状況に従った行動――すなわち、「随縁放曠」(ずいえんはうくわう)――が必要であること、並びに、パラダイム・シフトが適切な時期(業況の良いとき)に行われなければならないことが示唆されていると解される。
(会報『TKC』平成14年12月号より転載)
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